昭和四十一年八月三十日 朝の御理解 おかげを落とす前提とでも申しましょうかね、おかげを落とす前は、人間がこういうような状態になる。これを私共は、知っておきませんと、自分自身の上に、それが、そういう風にふりかかって、まいりましても、それを気がつきません、それを、ほかの、せいにしたり、人のせいに、したりします。
信心さして頂いておって、一番こわいのは、徳切れとこう申します、徳切れというと、徳をうけられて、おる人でも、徳が切れたら、もうおしまいであり、なら私共の場合なんか、その徳というような、徳を受けられておる訳でも、ございませんから、そこんところを慢心は大怪我の元なりという風に教えておられます。
徳を受けておらんのに、慢心がでる。これは もう大怪我をする前提なんですね、それで、ここんところを、一つあの よくよく厳密に分ってまいりませんと、そうしてお気付けを頂きよっても、お気付けをお気付けと、気付かずに、大怪我をしなければならん。
いわゆる、おかげを落さなければならん。
私今朝から、もう、四時すぎに目が覚める、で やすんでも、おれませんから、起きて、もう、あち、こち、こう家ん中をまわらしてもらう。第一、自分のやすまして頂いておる、部屋が、もう整頓が全然でけておらん、もう、いっぱい、ちらかしなりである、次の間に行や、次の間をも又ちらかっておる。
洗面所に行けば、洗面所がちらかっておる、廊下にでれば、廊下がいっぱい、ちらかっておる、もう、家のどこも、ここもが整頓出来ていない。
朝からま、どうして、その、ろくそなか奴どんばっかりじゃろうか、と言うような、その不足不平が、心に上に起こってくる。こんなことじゃ、もう朝の御祈念は、こりゃ、もう 早起きすることは、かえっていけん、そうして、まわって、行けども、やっぱ、ま、お広前へ、行っても、ぐりぐり、お広前の、ぐるりまで、廻ってみろごたる。そして( )こんだという風に、それが、自分の心の中に、不平になり、不足になって、私の心の中に、おだやかではない。
こげなことじゃ、神様の前に出たって、もう出ようがないと、いうような、心の状態、それでも、まだ気がつかない、御神前に出らせて頂いた。それで、もう 一生懸命に、天津祝詞を奏上さしてもろうたり、大祓いでも、あげさしてもろうて、じっと、この気持ちを神様にかよう心にさして頂きたい。
願っても、願っても、おんなじである、ところが不思議な現象、私の身体のあっち、こっちがです。も、それこそ、痛いような、痒いさを感じる、もう首のへんが、かいかとか、背中がかいい、それがですね、ただ その蚤にかまれたとか、蚊にさされたといういさじゃないんです。痛いようなかいさなんです。御祈念中に、もう、ちょつと、手をここにゆって、かかなければ、おれないのです。首に手をあてなければ、おられないのです。
で、はじめて、私は気がつかしてもろうた、ほんとに、分って、いるようで、もう ほんとに、人にも聞いてもらったりしておるようであって、もう十分に、十二分に分かっているようであって、分かっていない。
身体の、あっち、こっちがかゆい、それを感じる時にです、もう痛いほどに、感じずる時にです。ふっと気がつかせて頂いた。
ほんとに、私の今の心の状態に、神様がはがゆい思いを、してござるなぁと、いうことであった。
私共が、十七、八年前までは、私共はその当時、福岡の方へ親子よ四人で行っとりましたが、一番最後の時は、もう四畳半の部屋に、畳も敷いてありません。その四畳半の隅に、神様がおまつりしてある。
二階は、二階ではない、屋根は、スレート瓦ですかね、あの、こう波のある、あの瓦がしてあったが、少し、もりますもんですから、隣の人が、もらんように、してあげましょうち言うて、上にあがったもんですから、踏み割ってしもうて、かえって、もるようになった・
さぁ、もるように、なったからというて、それを、とりかえるだけの力もない時分ですから、もう、雨が降れば、お神様の前の畳半畳のところだけがもらん。
そこに、親子四人の者が、押しかたまって、やすまして頂いた時分がある。
それこそ、もう道具も( )の道具がないですから、きちっと、整頓がでけておった。
ほんとに、ああいう時代がつい、この頃まであったのに、これだけ広いところに、住まわして頂いて、その広いところに、整頓が出来ない位に、例えば、道具なら道具、荷物なら荷物が多い、昨日なんかは、久富先生、もうお米に虫がついて、二俵か、さ三俵か、リヤカに積んで、精米に行かれて、そのお米の整理をしよんなさる。
とても、お大祭から、お大祭まで、頂き、きれん位におかげを頂いて、いわゆる、虫つかせる程に、おかげを頂いておる。
思えば思うほどに、そういうおかげを頂いて、おるのであるということ、それに、お礼を申し上げる心でもなしに、どうした片づかんこっじゃろうか、いや、どうした、ろくそなか人間ばっかり揃とるじゃろうかと、言うて、心の中に、朝から、そのジカジカしておるということがです、これは もう間違いない私の慢心だとこう思う。
皆さん不平不足が出る時には慢心ですよ、然も、 そう言う時には、おかげのうけられないと、いうことを先ず分かっていいですよ。
ほんとな、おかげは絶対に受けられません、だけでは、ありません、もう おかげを落とすぞと、いうこれは前ぶれです。
私共の心の中に、不平不足がおこる時には、不平不足は慢心です。それでも気がつかん、椛目にも、私は幾人かの、そんな人を最近、非常に感ずることがある。
その人のことを悪口を言う、その人んとこに、人が集まらんようになって、いきよっても気がつかん、ほんとに、私はこわいことだと、こう思う。
徳切れが、一番こわい、そんなら、その徳でも、頂いておる程しの、これは、私共の場合、徳を頂いておるとも思われませんけれどもです。徳切れが一番こわいようです。私共の心ん中に、慢心を慢心と気付かぬ時は、一番こわい時だということです。
私は御祈念中に、身体のあっち、こっちがかゆうなって、はじめて、はっと気がついた、いゃあ 私は今思いあがっとるぞ、あたしゃ慢心しておるぞ、と不思議です。あたしゃ、そのことを気付かして頂いた、途端に、あっち、こっち、かゆかったのが、かゆくないのですから。言うて、聞かしても、分かん、ですから、五体にあらわれて下さるのですよ、神様が。お気付けに、あらはれて、下さるのですよる。
ほんとに、好かん奴じゃと、思うような、人間でもです。集まってきよる時には、まぁだよか、( )の時です、好きかん、もんじゃろうが、好きなもんじゃろうが、段々かげがうすれて、まいります時にゃ、もう いよいよ、これは、大怪我の、前提です。
もう どうした、ろくそなか奴じゃろうか、こと じゃろうかと、いうごと、家中がちらかる程に、ならある時には、たしかに、おかげを受けておる時です。
そのおかげを頂きすぎておることに対して、不平不足を言うような、この心は、慢心でなくて、何であろうかね、慢心。
今日は、皆さん、ほんとに、皆さんが、不平不足を今まで、思うておられたり、又 もし、不平不足の心が、おこってきたらです、これは、もう慢心だとみて、そして、その慢心がどこから、でて、くるのかを、追求して、その慢心をとっちめて、その中に有り難うございますと、ちらかっとるなら、自分が片づけたらええ。整頓がでけとらんなら、自分が整頓したらいい。
あら、この頃あん人は、いつも、ちょい、ちょいうちに、来よったが、来なさらん、と いうような、もしそういうことににでも、気がつくならです、お詫びさしてもろうて、もうほんとに、あの好き、嫌いは言うちゃおられん。
病院にでも、いっちょ、入院してみるがいい。
どげな人でもええ、尋ねて来てくれりゃ嬉しい、自分も健康のおかげを頂いておる、それがもう 当たり前のようになって、あら、あの人が又こらっしゃった、というような時には、もう いよいよ、もって、私共が用心しなければ、ならん時だと、いわゆる、慢心は大怪我のもとなんだ。
今朝から、私そういうようなことを、はぁ、ほんとに、もう人にゃ、慢心しなさんなよ、慢心は、大怪我のもとばい、もう徳がきれたら、おしまい、それまで、はい、と言うて、ほんとに、得々としてです。いかにも、自分のものに、なっとるようにして、伝えておる私自身が、いつの間にか、どこのすきからか、そんな慢心がいっぱい私の心の中にはびこって、行くところ、見るところに、不平不足を感じなければ、ならないような状態になって、おるということ。
段々おかげを頂いてまいりますとです、みんなが整頓するようになります。段々おかげをほんとうに頂くようになりますと、ほんとに、もうそれこそ、清めすぎる位に、みんなが清めるようになります。そういう有り難い中に、おかげを頂かして、頂けるようになることが、これは信心さして頂く者の理想なのですけれども。
例えば、私がなら、とんなに清潔好きであるとか、ろくそな、ことを嫌いであると言うてもです。もう私の周囲にろくそな人がおったり、ろくそに、なってきたということはです、もう いよいよ、もって、まぁ、あんた、どうした、ろくそなか人間ね、て言う前にです。それが、もう 見える時にはです、感じる時には、慢心を悟らしてもらい、( )お る周囲にみだれておる時には、もう いよいよ、神様がお気付け下さっておる時であると、分からしてもらってです、おかげを頂かなければならん。
そこが分からんもんですから、神様が、はがゆい思いをしよんなさる。はがゆい思いをさせるだけなら、ええけれども、「ああ、せからしかと、」神様が言いなさるごとなったら、もう いよいよ、 おしまいです。
神様にはがゆい思いをさせておる間に、はあ、神様分からして、もらいました。気付かせて頂きました。と、気付くところを気付かせて、もろうてです、おかげを頂いていかなければならん。
もう慢心というのは、どこの節からでも、はいってくる。どうぞ、ひとつ、今日は、もう、ぎりぎり、そこん、ところを皆さん、私共の、ま不平不足にでも、感じるような時には、もう慢心の兆です。そして、そこんところに、ほんとに、そこんところじゃない、それが、不平不足を言わんですむように、いや、ほんとに、有り難いなぁと思えるような、雰囲気の中に、おかげ頂かれるような、信心を目指さして、頂いて、おかげを頂いて、いかなければならんと思うですね。どうぞ。